母がくれた、「月詠」という名前。
私は立川で生まれ育ちました。物心ついた頃には父はおらず、母と二人暮らし。母は昼は仕事、夜は疲れた顔で帰ってくる日々でした。「月詠」は、その母がつけてくれた名前です。
月はどんなに暗くても、ちゃんと光を放ってるでしょう? だから、どんなに辛い時でも、自分の内側の光を見失わないでほしい。そして、誰かの夜を少しでも照らす人になってほしい。
幼い私には難しい言葉でした。でも、その響きだけは、ずっと胸の奥に残っていました。
小学四年生の冬、駅の改札で。
母が仕事で遅くなった夜、一人で家にいた私は、胸の奥がざわつくような感覚に襲われました。理由はわかりません。ただ強く「お母さんが、今すごく辛がっている」と感じたのです。
傘も持たずに家を飛び出し、近くの駅まで走りました。改札の外で、母が立ち尽くしていました。仕事で大きなミスをして、会社から強く叱責されたばかりだったそうです。
「どうしてここにいるの?」と驚く母に、私は答えました。
「わからない。でも、来なきゃって思ったの。」
それが、私が初めて「視えた」瞬間でした。
流れ込んでくる、人の気持ち。
それから、不思議なことが増えました。学校で友達と話していると、言葉ではなく感情が伝わってくる。笑顔の子が本当は家で泣いていること、平気そうな子が誰にも言えない孤独を抱えていること。何度も現実と重なるうちに、自分の感覚を無視できなくなりました。
中学生になる頃には人の気持ちが自然と流れ込むようになり、高校生でさらに強くなりました。人混みに行くと、いくつもの感情が一度に入ってきます。
- 悲しみ
- 怒り
- 不安
- 孤独
学校から帰ると、何も話せなくなる日もありました。
高校二年の秋、母のひと言。
珍しく弱気な顔で、母が言いました。「もう、頑張るのやめようかな……」。仕事と家事の両立で、心も身体も限界に近づいていました。でも私は、母の本当の気持ちを感じていたのです。本当はまだ続けたい。私たち二人の生活を守りたい。けれど、私に心配をかけたくなくて、諦めようとしている。
「お母さん、本当はまだやりたいんでしょ?」。しばらく黙っていた母は、小さく笑いました。
「月詠には、隠せないね……」
その日から母は、自分のペースで仕事を続けることを選びました。
昭和記念公園の木立で。
二十歳を過ぎて、立川で働き始めました。「普通の人として生きよう。この力のことは、誰にも話さない」。そう決めていましたが、都会は私には刺激が強すぎました。駅、電車、人混み。誰かの不安、焦り、悲しみが毎日流れ込み、半年も経たないうちに心も身体も疲れ果てました。

そんなある日、子どもの頃によく母と歩いた昭和記念公園の木立を思い出しました。木々の匂い、風の音、静かな空気。久しぶりに公園へ行きベンチに座ると、胸の奥の重さが、すっと消えていきました。
この力は隠すためにあるんじゃない。誰かのために使うものなんだ。そう思えた瞬間でした。
はじめて、心を軽くできた人。
その後、知人から人生相談を受ける機会が増えました。恋愛、仕事、家族関係。みんな、何かしら悩みを抱えていました。
何年も別れた恋人を忘れられずにいた女性に、私は言葉の奥にある本当の想いを感じ取り、こう伝えました。
「あなたが忘れられないのは、彼じゃない。彼といた時の自分なんですよ。」
彼女は涙を流し、「ずっと、誰にも言われたことなかった……」と言ってくれました。誰かの心を軽くできること。誰かの背中をそっと押せること。それが私にとって、何よりの喜びになりました。